2018年06月07日

許そうとすること、許さなきゃいけないと思うこと 〜主旋律はその人の選択〜

虐待を受けてきた人、言葉の虐待を受けてきた人


物理的にも、精神的にもネグレクトを受けてきた人




それをサバイバルしてきた人




それらの人たちに


時折見かけるのですが、HOWTO本、啓発本やスピリチュアリティな教えとして




「許すこと」が癒しに繋がる、自己解放につながると説かれているものがあります。






僕自身もカウンセラーとして駆け出しのころ、それをクライアントさんに「許したほうがいいですよね?」と聞かれ

「そうですね」と答えてしまった経験があります。





許し(赦し)は自然にその人の中で認知のシフトが起こり、そのうえで自分で判断するのであれば

文字通り、とても強い癒しになります。






他者(カウンセラー、セラピスト、スピリチュアルリーダー、先生やお医者さんなど言葉を聞き入れる人)から思考で許しを強要することは、その人に新たな苦しみ(抵抗)を創り出してしまいます。





端的に言うと「許せない私はダメだ」という思いもできやすくなります。






僕としてはとても強い失敗でした。

それによりクライアントさんをさらに苦しめてしまった失敗経験でした。






許せないくらい、抵抗になっている思いに耳を傾けていくこと、その過程はとても大事になります。


怒り、悲しみ、寂しさ、怖さ、無力感、虚しさ、諦めなど


そこを省いて「許しましょう」「忘れましょう」では本当の癒しにはつながらないのです。


もちろん、これは「今世での試練だった」という思考による問題のすりかえもただの抑圧です。





そこをしっかり紐解くこと、対話していくこと

無力感、怒りがあったならそれも十分感じさせてあげることで

無力感、怒りを受け止めてあげたいし、存在を分かってあげたいのです。






許すのではなく、怒りにコントロールされている、無力感にコントロールされている、構造の解体のほうが大事です。

それによりその人は力を徐々に取り戻していきますし、自分が自分への理解者として成長していきます。




被害者から、自分への理解者になるのです。


その道程を、その一歩一歩を見守りたいのです。





「許しましょう、そうしましょう」を強要するスタンスでもなく

「恨みましょう、そうしましょう」を強要するスタンスでもなく




その人が何を感じていて、どんな思いを抱きしめていたのかを、受け止め、僕は大事にしたいスタンスでありたいのです。


セラピストは主旋律ではなく、あくまでも伴奏。

セラピストはナビゲーターであり、主役ではありません。



許す、許さない

憎む、憎まない

はその人の選択。


いずれもあってもいいのです。



癒しを重ねていったうえで、その人の選ぶ選択を、その人自身の奥にある叡智を僕は信じたいのです。



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posted by 創間元哉 at 21:56| そうまのコトバ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする