京都にてひとり旅。
というより座禅を組みたいとふと思い立ったので京都に来たのです。
生憎の梅雨空。
今日座禅に訪れたのは臨済宗の禅寺でした。
平日ですが結構参加されている方も多く、外国の方も見受けられます。
住職からお話があり、禅が始まります。
ゆっくり細く鼻から吐いて、吸って
一から十までゆっくり心の中で数えていきます。
これがなかなか難しいのです。
その数えている間は、座禅を組み、体は動けない状態で姿勢を正しています。
体が動けないと人は思考優位になります。
いろんな雑念や執着、感情なども心をよぎり、その間に数を数えていることすら忘れてしまうことも。
住職が「警策」という棒を持って、座禅を組む我々の前を通過します。
眠気が強くなったり、集中ができないときには、この会では合掌をして、警策でたたいてもらうのです。
何事も体験と僕もしてもらいしたが、
パンパン!パンパン!という音とともに、体に衝撃と痛みが走ります。
しかし不思議なのですが、そこから姿勢を正し、呼吸に入ると自然と集中がしやすくなるのです。
そして何より周りの方が難しいと言っていたのが、自分の雑念にとどまってしまうということでした。
住職は「その雑念も払おうとするのではなく、窓から眺めるように流していく」とお話ししていました。
まさに僕らが普段行っているマインドフルネスやハート系の瞑想の要領と同じです。
心が静まっていきます。
ただただ呼吸に集中します。
自分が無になっていく感じ。
合図があり、禅が終わります。
目を開いてふわーっとなりました。
それはそこにあったと頭では知っていたのだけれど
目を見開いた後の縁側から見える、お庭の緑の鮮やかさや蓮の花の美しさといったら…
住職からお話では
臨済宗では「あるがまま」を「ありがまま」というそうです。
自分と見つめ、向き合い、自分の心の状態が”ありがまま”になることで、そこにあったものが”ありがまま”に見える。
きれいな心からはきれいな世界が映し出されると。
ずっと見入っていたありがままのそのお庭の風景は実に鮮やかで、エネルギッシュで、本当に力強いのです。
僕の雑念を通してみていたお庭とはまったく違うものでした。
その感動が今こうしてこの記事を書いている自分の中に残っています。
あるがままを見ていく。
あるがままに何を乗せていることで人は苦しんでいるのか。
あるがままの自分とは。
僕がずっと触れてきている心のことに、本当につながる体験でした。
大切な体験のあとは
そのあとは、ビールでひとり酒。
すぐさま俗世に戻り、酒池肉林な休日なのでした。